福岡高等裁判所 昭和34年(う)323号 判決 1959年4月24日
被告人 岩永雅敏
主文
本件は被告人の昭和三十四年四月九日附書面による控訴の取下によつて終了した。
理由
よつて本件記録を調査するに、被告人に対する公職選挙法違反被告事件について、昭和三十四年一月十日熊本地方裁判所において、被告人を懲役一年に処する。但し本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する旨の判決の言渡がなされ、該判決に対して被告人から同年一月二十三日当裁判所に控訴の申立があつたのであるが、その後被告人名義の本件控訴を取り下げる旨記載した同年四月九日附「控訴取下書」が同月八日(当庁当直文書受付簿によれば同日午後八時五十五分)当直受付をもつて当裁判所に提出された事実が認められる。
そこで右控訴取下書の提出が被告人の意思に基かないものであるか否かについて審究するに、当審証人岩永恵美子、同川上光明の各証言並びに被告人の供述に、記録に編綴されている弁護士和気寿の「上申書」、熊本県議会議員候補岩永雅敏選挙世話人堀勇喜ほか四名連名の「上申書」、川上光明の「証明書」添付の書留郵便物受領証、熊本県議会議員寮管理者高橋勇平並びに弁護士山中大吉の各「証明書」を参酌すると、被告人は、今次皇太子御成婚の儀にあたり恩赦が行われ、公職選挙法違反の罪によつて刑に処せられた者も、昭和三十四年四月十日の前日までに有罪の裁判が確定しているにおいては、その恩典に浴すべきことが新聞紙上に報道されたところから、被告人に対する原審判決の刑が恩赦にかかるならば、本件控訴を取り下げようと考え、同月五日被告人の当審弁護人である弁護士和気寿方を訪れ、その意見を求めたところ、同弁護士からは、行わるべき恩赦の範囲、基準は未だ明確でなく、これについての新聞紙の報道や世上の取沙汰を軽軽しく信用することは危険であるから、被告人においてその所属する自民党の本部等に問い合せ、原判決の刑が恩赦にかかるとの確実な情報を入手したうえで控訴を取り下げるようとの警告を与えられ、控訴取下に備えて、同弁護士からその際当裁判所に提出すべき控訴取下書並びに封筒の上書を書いて貰い被告人において右取下書に署名押印し、これを右封筒に入れて自宅に持ち帰り、自宅書斎の机上書類箱に保管していたこと、被告人は、同月七日熊本県議会議員立候補打合せのため熊本市に赴いて、同夜は熊本県議会議員寮に一泊し、翌八日午前十時半頃帰宅したのであるが、被告人の不在中である同月七日被告人の妻岩永恵美子が控訴取下書提出の可否について被告人の選挙世話人である川上光明等の意見を聞き、更に電話をもつて山中大吉弁護士の意見を訊ねた結果その意見に従い、同夜前記控訴取下書在中の封筒の郵送方を川上光明に託し、同人をして翌八日午前中熊本市坪井郵便局より書留速達郵便をもつてこれを福岡高等裁判所へ郵送させたこと、被告人は、熊本市より帰宅後同日午後五時半頃和気弁護士より電話で恩赦の情報入手の有無についての問合せがあり、右話中、たまたまその場に来合せた妻恵美子から控訴取下書郵送の事情を告げられて、これを知るに至つたことを認めることができる。しかしながら以上の事実から直ちに、証人岩永恵美子及び被告人の供述するごとく、本件控訴取下書の提出が被告人の意思に基づかずして、妻恵美子の独断でなされたものと断定することはできない。すなわち本件の控訴取下書を提出すべき最終日とされていた同月九日まではなお時間的余裕があり、被告人と連絡の上提出することができたのにかかわらず同月七日夜川上光明に郵送を託していること、またもし妻恵美子が、被告人からの何等の指示もないのに独断でなしたものとすれば、事柄の重大性にかんがみ、被告人帰宅後なにをおいてもまずこの事の了解を求むべきであるのに、和気弁護士からの電話あるまで深くこれを気に留めていなかつたこと自体に徴しても、同女が被告人の意思に基づいてなした措置であることを覗いえないではない。さらに被告人は控訴取下をすれば同月十日午前零時までは選挙運動ができなくなることを聞知していたので妻から取下書を提出した旨を告げられた九日は選挙運動を止めていたのであるがそれ程取下問題を重視していた被告人としてはもし被告人の意に反して本件控訴取下書が発送されたものとするならば、これを知つたとき直ちにその前後策について八方奔走して手をつくし、当裁判所に対しても何等かの手続をとると考えられるにかかわらず、右発送の事実を知つてから同月十日復権令が発布されて被告人の刑がその復権の基準に該当しないことを知るまでの間何等かかる措置に出でていないことに徴すると、妻恵美子のなした本件控訴取下書の発送が被告人の指示に全然基づかない妻恵美子の独断によるものとは認め難く、少なくとも被告人は、叙上認定のような妻恵美子が山中弁護士等の意見に従つて本件控訴取下書を発送したことの事情を知つたとき、自己の刑が恩赦にかかるべきことの強い期待の念を抱いて、右取下書の発送を容認し、あえて控訴取下を否定する意思なく、むしろこれを維持する意思に出でたものと認めるのが相当である。被告人が九日に選挙運動を止めていたこと自体からも、本件控訴を取り下げてしずかに恩赦該当の朗報を待つ心境にあつたことを覗いえられないことはない。以上認定の事実に抵触する前記各証人の証言部分並びに被告人の供述部分及びその他の資料は当裁判所の信用し難いところである。したがつて本件控訴取下書は結局被告人の意思に基づいて提出されたものと認めるのほかはなく、本件控訴は有効に取り下げられたものというべきである。
しからば本件は、被告人の控訴の取下によつて終了したものであるから、主文のとおり決定する。
(裁判官 池田惟一 厚地政信 中島武雄)